

Myanmar
後編 軍事政権時代、未踏の地へ
ワンダーランド、秘境国ミャンマー
Story 1
天空のポッパ山とナッ
雲ひとつない空の下、タクシーでバガンから50キロほど離れた
ポッパ山に向かう。
道の途中に見たアスファルトの補修工事、
手で地面をポンポンして穴ぼこを埋めていた。
気長な作業だなぁ、手作り道路。
道路工事は女の人がやっていることが多かった。
お弁当を持って自転車で学校にいく女の子や、道にいる子どもたちが
バイバイって手を振ってくれていた。
少し走ると白い牛が木の下でくるくる何かを挽いている場所に出くわした。
一時停車。
ピーナッツを挽いて、油を作っているんだって。
ゆったりじわじわピーナッツ油が染み出てた。
近くの小屋ではヤシ酒とお砂糖を作っていた。
「ウィスキーだよ」って蒸留したてのお酒を一口もらったけど、
ピカッとくるぐらいきついお酒だった。
帰り際に、ヤシの葉っぱで編んだカゴに入ったお砂糖をくれた。
口に入れると素朴な味で、ほろほろっとくだけた。
そうこう1時間半ほど車に乗っていると、見えてきたポッパ山。
ポッパ山の麓にある岩山が、ミャンマー土着のナッ信仰の聖地。
岩山の頂上には黄金の寺院が乗っかっている。
不思議な光景だった。
ミャンマーは仏教国だけど、同時に精霊ナッ信仰という
土着信仰も根付いている。
ナッとは、ミャンマーに伝わる古来の神々や、
自然界の精霊など八百万の神様のこと。
中でも37のナッが、深い信仰を集めている。
そのナッの多くは、
非業の死を遂げたことによって神格化された一般の人らしい。
蛇や虎に噛まれて死んだ人、王に処刑された人、
ひどい下痢で死んだ人、など。
ポッパ山ではブッダといっしょにナッさんたちが祀られている。
ポッパ、とは、サンスクリット語で「花のあふれた」という意味らしい。
ゾウとダルマの門をくぐって、靴を脱いで、
てっぺん目指して階段を登った。
とにかく猿の多いこと。
ロンジーをひっぱられたり、カメラを向けたら
シャーって飛びかかられそうになったり、ちょっと怖かった。
階段ではおばちゃんが飲み物を「リポビターン!」って売っていた。
外人さんには「コーラ」って言って同じものを売っていた。
猿と目を合わさないよにがんばって階段を登り終えると、
てっぺんには金の仏塔がまばゆく光ってた。
お参りの人たちがにこにこ笑いかけてくれた。
山を下って、バガンに戻った。
仏塔をいくつか回って、バガンで1番美しい建築とされる
アーナンダー寺院では、ミャンマーの人たちのまねをして、
金箔を買って、仏像に貼り付けたりした。
ここにおられる大きな仏像は、見る場所によって表情が変わるという。
振り返るとにっこり大きく微笑んでるように見えた。
この日は大晦日、1年の最後の太陽を見送るために
馬車に乗って人の少ない仏塔へ。
ヤギや牛の群れが砂埃をもうもうとあげて家路についていた。
バガンにいると、時間の流れがとてもゆっくりに感じられる。
途中すれちがった牛車は究極に歩みが遅くて、
「歩いたほうが速そうやね」ってなごんだ。
あぁ、もう日が落ちる。2010年もさようなら。
静かな古い仏塔の上から最後の夕日を見届けた。
「感無量!」の言葉がぴったりだった。
夜がきて、ホテルの周りからは少しだけ花火や歌声が聞こえてきたけれど、
3人でゆく年くる年。
音楽も止めて、祈りながら年を迎えることにした。
「ブッダ、ダルマ、サンガ」教えてもらった祈り方。土下座3回。
日本にいたら、やれ鍋や、バーゲンや、ってなってただろうな、
たまにはこんな過ごし方も最高やね。祈るなんてまさかだったね。
3人の笑い声がはじける部屋で、新年がはじまった。
Story 2
ミャンマーでモテ期

初日の出を見るために、ミーニィンゴォーパゴダという、
ひときわ古い仏塔に行った。
真っ暗で迷路みたいな石の階段を手探りで上がる。
まだ星と三日月が光る空、寒かったからありったけの
持ってきた服を着込んで朝日を待った。
遠くの山から少しずつ顔を出すまっ赤な太陽、
じんわり確実に空がオレンジに染まっていく。
新しい年の幕開け、無数のパゴダのシルエットが朝日に照らされる。
今年も絶対いい年にしてやろうと思った。
いい年にならないわけがないと信じた。
そしてまたいつか、私はバガンにこの景色を見に
帰ってくるような気がした。
朝日が空にすっかりのぼって、太陽の輪郭が空に馴染んだのを見届けて、
初詣に。
お布施をして、ブッダにご挨拶をして、
そうしたらなんと地元のおっちゃんたちが
「朝ごはん食べていきなさい」って誘ってくれた。
輪に入れてもらうと、おっちゃんらがどうぞどうぞと
いっぱい勧めてくれた。
かきあげ、赤飯、お餅などなど。
まるで日本食!
「サーロカウンデー(ミャンマー語でおいしい)」って伝えると、
おっちゃんらはにこにこ顔でとても喜んで、
「新年のお布施だよ」って言ってくれた。
新年早々の、楽しいおいしいうれしい時間。
それから自転車を借りて、エーヤワデー川まで行った。
エーヤワデー川はようかんみたいな色で、
あまりそそられなかったけれど、ボートに乗ってみることにした。
30分の遊覧で、350円くらい。
ボートに乗り込んで、川岸を離れた時。事件発生。
パキっと音がして、私のカメラのキャップが川に落ちてしまった。
ボートをストップさせてボート乗りの兄ちゃんが棒でこっちに
寄せようとしても無理で。
そうしたら兄ちゃん、靴を脱ぎ始めて「えっ!いいよいいよ!」
って言ってる間にドボン!その波動で浮かんでたキャップもドボン。
もぐって一生懸命探してくれたけれど、結局見つかんなかった。
シャツもジーパンもびしょぬれの兄ちゃんは、
ごめんね取ってあげられなかったって顔をしていて、
いやもうほんと、こちらこそごめんねありがとうの気持ちで
いっぱいだった。
遊覧が終わって、ボートが岸に近づいた時も、なにやらミャンマー語で
うにゃうにゃ言いながら、あるかなぁないかなぁ、って探してくれていた。
彼の誠意はきっとずっと忘れないと思う。
損得なんてこれっぽっちも考えない行動っていうのは、
こんなにもすがすがしいんだなぁ。
川岸には黄金のぽってりした可愛い仏塔、ブーパヤーパゴダ。
真っ青な空にキンキラリン、まぶしくって目が開かない!
ベンチに座って少し休憩していたら、向かいに座っていた女の子2人と
目があった。
ほっぺにタナカを塗り込んだ、地元の女の子。
華やかなロンジーと、三つ編みがいいなぁって思って見ていたら、
はじめは目を合わせてくれなかったけれど、
私がその場を立ち去ろうとした時に、話しかけてきてくれた。
「あなたのカメラで、一緒に写真撮りたい!」風のジェスチャー。
そこからがすごかった。
姉妹だという20才のテンテンムーちゃんと、16才のルーチーちゃん。
私の両手をつないで、ぴったり寄り添って、抱きしめて、はいポーズ。
次はこっちこっち!
カメラマンに徹してくれたりんりんを引き連れて、
何度も場所を変えての撮影大会。
極めつけには2人が私のほっぺにチューしてるところの写真まで撮ることに。
まるでアイドル状態。どうしたどうした。
カメラの液晶を見せると、「ビューティフル!」って、
きゃっきゃと喜んでくれていた。
後からきれいなお母さんとまだ小さい弟と、お友達もあらわれて、
「私たちはポッパ山の近くからきました。よかったらうちにきませんか」
って誘ってくれた。
残念ながらそれは叶わなかったけれど、仲良くなれてほんとにうれしかった。
とにもかくにも、この日は出会いにあふれた幸先の良い1月1日だった。
Story 3
炭酸のぬけたスプライト

実は、もともとバガンにくる予定ではなかった私たち。
ミャンマーのもうひとつの大きな町、猫が芸をする寺院がある
インレー湖あたりに行こうと思って、国内線の飛行機まで予約していた。
でも突然、予約していた航空会社が倒産して、
チケットを取り直さなきゃならなくなった。
インレーへのチケットはなかったから、じゃあバガンにしよっか。ってなった。
偶然が重なってやってきたバガン。
偶然が導いてくれたバガン。
出会えた人、景色、全部に感銘を受けた、もっともっといたかった。
最上級にすきな地となった。
広いバガンを見て回るには、馬車が欠かせない乗り物だった。
バガンを去る前に、数日間、お世話になっていた馬車の主、
モーモーさんと、馬のジェマにさようならを言いにいった。
「来年もまた、僕はここにいます。写真も撮ったから、
覚えておいてくれるよね」って。
本当に面倒見が良かった英語も達者なモーモーさん。
真剣に私たちが見るべきものを一緒に考えて、
最高の夕日と朝日を見せてくれた。
その気遣いは、商売の域を超えているように感じた。
また会えたらいいな、会える気もするな。
首都、ヤンゴンに向かう飛行機はなんと自由席。
早い者勝ち、そんなのはじめて。
飲み物は炭酸のぬけたスプライトが出てきた。
ヤンゴンについて町歩き。
ホテルのすぐ近くには町のランドマーク、スーレーパゴダ。
黄金に輝いている、はずが、修復中で全面ゴザに包まれていた。
中に入ってみると、祈る人たちの奥にある仏像に目が釘付けに。
後光がめちゃくちゃ光ってる。イルミネーション。
どうもこの後光のスタイルは、ヤンゴンでは基本のよう。
それにしても、ミャンマーのお寺に鎮座している仏像や
ダルマや守護神の像は、独特。
人々が祈りを捧げている対象だから、変なことは言えないけれど、
茶目っ気たっぷりで、気になってしかたない。
突っ込みどころが満載。
寺院の片隅にあるダルマを探したり、ねじり鉢巻のおっちゃんの像に
笑ったりと、見ていて飽きることがなかった。
また、ミャンマーの人たちは占いにも熱心。
何曜日に生まれたかでその人の人生は定まっていると
信じられているという「八曜日」の占い。
寺院の境内には8つの方角に、それぞれに割り当てられた動物の祭壇があって、
その前で熱心に祈っている人を多く見かけた。
私は水曜日、キバのあるゾウ。
親切に声をかけてきてくれたお坊さんが、教えてくれた。
その後も、そのお坊さんがヤンゴンの町を案内してくれることに。
ミャンマー人で、今お寺に住み込んで勉強をしているという
ニーンさんも一緒に。
ニーンさんはとても知識が豊富で、いろんなことを話してくれた。
「村上春樹のカフカが好きです。ちょっと欧米文学っぽいところがありますね。
俳句もいいものですね」
と言ったかと思えば、
「日本に行ったら、富士山と広島と長崎に行きたいです。
日本の人は、アルバイトが自由にできると聞いて、私はびっくりしたのです。
ビルマではアルバイトができないので。
しかし日本のビザの取得は難しいです、ミャンマーからは不法入国者も
多いですから仕方ないですけれど。」
きれいな英語ですらすらと、日本についてのことを話してくれた。
私がずっと気になっていたことも、聞くことができた。
「この国は、ビルマと呼ぶべきですか。
それともミャンマーで良いのですか?」という疑問について。
「どちらでも。古い人はビルマと言いますね」と答えてくれた。
ビルマかミャンマーか。
この呼称については、いくつかの視点からの意見を聞いていた。
ガイドブックにも、「ミャンマー(ビルマ)」と書かれることが
多いし、「ミャンマーという国名は、1989年に軍事政権が一方的に
決めたものでしかないのだから、ビルマこそが本当の国名だ」
と強く発言する人も欧米を中心に、日本にも多い。
私の英語の先生に、「ミャンマーに行きます」って言ったら、
「ビルマでしょ、ミャンマーと言ってはいけない」と諭されたし、
旅にくるまえに、しげちゃんといったイベントでは、
難民申請を受けて今日本にいる人たちや、人権保護団体の人たちが
「今は(2010年時点)ビルマには行かないでほしい。
行ったところで、軍事政権にお金が流れるだけですから。」
と訴えていた。
どっちがいいのか、考えても調べても分からなかった。
でも一応、三人で「ビルマ」って意識して呼ぶことにはしていた。
現地に行って、地元の人に聞けば、きっと納得する答えが
得られるだろうって思って、ニーンさん以外にも、何人かに聞いてみた。
そうすると意外にも現地の人たちは、
「え、ミャンマーやで」っていう反応だった。
「ビルマ」と言う人に、私たちは出会わなかった。
私は、ビルマかミャンマーかという話は、
もっと重いものなんだと思ってた。
でもなんとなく、そこでの議論は外野が盛り上がっていただけなんじゃ
ないかという気がした。
国名、というのは大事だと思う。
いきなり「今日からこの国はニホンではなくて、ヤマトになります」
とか宣言されたら相当戸惑う。そりゃ怒る人も出てくるだろう。
でも、それって他の国の人にとってはどうなんだろう。
「ミャンマーと呼ぶことで、軍事政権を認めたことになる」という
メディアの姿勢。分からなくもない。
でも、この国の話をする時にミャンマーと呼ぶか、ビルマと呼ぶかで、
つまづくことになってしまうのは、惜しい。
こんなにも穏やかで優しい人々や、最上の風景や、
おいしいご飯があるのに、
そんな難しい言葉で、闇のベールかけてしまわないでほしい。
見つめておきたいのは、何よりも
その国にいる人が幸せに暮らしているのか、
困っていることはなんなのか、ってことじゃないのかなって
私は思う。



Story 4
油売りのトントン

ヤンゴンの町は、平日でも夜になるとあちこちで屋台が出て、
祭りか!と思うほど地元の人で賑わっていた。
夜遅くまで出歩いても、まったく問題なし。
あれこれ食べ歩き、なかでもパンケーキはスターバックスを越えるくらい
ふわふわでおいしかった。
日本やアメリカが経済制裁をしていた頃だったけれど、
中国から豊かな物資が流入しているとのことで、
物は豊かにあるように見えた。
ミャンマーのごはんは、期待をはるかに上回るおいしさだった。
メインは「ヒン」と呼ばれるカレー。
油をものすごくたくさん使ったカレーで、お皿に出されたときは
油がぜんぶを覆っている。
ヒンをひとつ頼むと、スープやサラダ、白ご飯がついてくる。
「現地の人は、カレーの油をごはんにかけて食べる」と聞いていて、
胃腸の弱い私は覚悟して挑んだ。
味はほどよくスパイスが効いていて、辛くはない。
エビ、豚、黒豆のヒン、ハズレはなかった。
結局、一度も常備薬の胃薬を飲むことなく、
3人ともお腹を悪くすることもなかった。
おいしいご飯は旅のテンションをあげてくれる。
ミャンマー最後の日、ヤンゴンをぷらぷら。
しげちゃんは小鳥売りのおばちゃんから小鳥を買った。
小鳥を逃がすことは徳を積むことになるらしい。
少しだけ手で包んで、空にかえしてあげる。
捕まえた鳥を売って買って徳を積めるって
まぁなんとも!人間の都合の良い解釈。
3人であてもなく歩いていると、男の人が話しかけてきて、
自然に町案内をしはじめてくれた。
日本で働いていたことがあるらしい彼は、日本語お上手。
もしかして、お金請求されるのかなぁって思って少し警戒したけれど、
「だいじょうぶ、わたし、あぶらうってるだけ~」
って、あちこち解説しながら景色がよく見えるビルや、
マーケットを案内してくれた。
「ヤンゴンには、立派な建物が多いですね」って言うと、
「イギリス統治時代の建物で、かってに壊しちゃいけないのです。
今は一般市民が住んでいます。」と教えてくれた。
現地の人に、軍事政権のことを聞くのはよろしくないと聞いていたものの、
少しそのことについての話題もふってみた。
「私たちは、必要なものは政府から支給されます。
銀行にお金を預けたらお金は戻ってきません。
政府が決めた、古い車や家や庭が渡されます。保険はないです。」
事実を教えてくれた。
でも、それに対する自分の思いは話さなかった。
それがいいことなのか、不満なのかは言わなかった。
おしゃべり好きな油売りのトントンさんと最後、
メールアドレスを交換してさよならをした。
トントンさんのアドバイスに従って、空港に向かう途中に、
シュエダゴンパゴダと、巨大な寝仏を見に行った。
丘の上に建つミャンマー最大の聖地、シュエダゴンパゴダはなるほど別格。
広い境内は1日かけても見きれないほど。
人々の寄進による宝石や金箔で、仏塔は光り輝いていた。
太陽と金と白い床からの強い光がまぶしかった。
境内にはお弁当をもった家族や、手をつないだ仲良しのカップル、
八曜日の神様にお花を捧げて熱心に祈る人。
ミャンマーの人々の生活には祈りが溶け込んでいる。
祈りを中心にすべてが回っているのかもしれない。
生きる上での大きな支えとなっているには違いなかった。
チャウッターヂー・パゴダでは、圧巻の寝仏に出会った。
全長70m、高さ17m。
祈りの声が歌のように響いていた。
白塗りできれいにお化粧された寝釈迦仏像。
ネイルもきちんとマニキュアが塗られている。
どの角度からみても、隙はなく美しかった。
すごいなぁ、なんだか親しみがわく感じ、
ブッダって男の人だったと思うのだけど。
足の裏には仏教の宇宙観図が描かれていて、
ずっと見ていても飽きることはなかった。
最後の最後まで、この国は驚きの連続だった。
「この国はまだ貧しいかもしれないけれど、
心は貧しくないよ」
トントンさんの言葉の意味を、私たちは心で理解した。


Story 5
旅の呼吸

旅を終えて、トントンさんに写真を添付したEメールを送ったら、
返事がきた。
「こんにちは
おねえさん の メール ありがいとうね。。
おねえさん は げんきにしていますか??
私 も げんきにしていますよ。。
おねえさん の しゃしん も ありがいとうね。。
また ミヤンマーに いてくださいね。。
私 は いらししゃますよ。。
からだをきよつけてくださいね。。
トントン」
毎日あたりまえに日が昇り、暮れる。
旅に出るとその自然のリズムに身を任せて、
空に生きてる実感を投影したりする。
そして辺りを見回して、新しいけれど
よく知っている慣れ親しんだ人々の営み、家族や友達、
カップルがそれぞれの日常を過ごしているのを見て、
どこにいてもやっぱり人は、それぞれの環境で
価値観で、幸せを探して
私たちと何ら変わりなく生きてるんやなー って。
いつも思う。
ミャンマーもそうだった。
私たちが旅をしたのは、2010年末から2011年1月3日まで。
2011年3月に、1988年以来の軍事独裁政権に終止符が打たれて、
民政に移行する直前のミャンマー。
今でこそ、アジア最後のビジネスフロンティアとして
毎日のように新聞やニュースで話題にのぼるようになったけれど、
その時はまだまだマイナーな国だった。
旅に出る前、「ミャンマーにいくの」そう言うと、
「えっミャンマー?なぜミャンマー?気をつけて行ってきてね」
たくさんの人に気をつけてと言われての旅立ちだった。
わたしはずっと「軍事政権ってどんなんやろか」
って思っていた。
でも周りにミャンマーに行った人もいなくって、
想像しようにも、なんとなく暗い闇が広がるような
そんな感じだったかもしれない。
民主化運動の指導者、アウンサンスーチーさんの軟禁、
2007年に反政府デモを取材していたときに、
軍政の治安部隊による発砲で亡くなった
ジャーナリスト長井健司さん。
ミャンマーと言って思い当たるのはそれくらいの
断片的な情報しか知らなかった。
どれも、ダークだった。
でも今、実際ミャンマーの地を踏んでみて思うことは、
この国を表現するのにふさわしい言葉は
日本には見当たらなかったということ。
私は何も知らなかったのだということ。
メディアから流される、誰かが大衆に向けてアレンジした
情報だけがリアルなんだって、思ってしまいそうだった自分に
気づかされた。
ミャンマーの人たちに、申し訳なかったなぁって
反省した。
これからミャンマーは、ものすごいスピードで
変わっていくんだと思う。
民政に移行してから、海外資本の流入が著しいし、
日本から飛行機の直行便も出た。
「今はまだ見せかけだけの民主主義だ」
とも言われているらしいけれど、今は見せかけだろうとも、
その一歩は大きい。
ノーベル平和賞を受賞している非暴力民主化運動の指導者、
アウンサンスーチーさんも、国政に参加している。
ミャンマーには昔も今も、複雑な事情があることは
認識してはいるけれど、
私は今回、ミャンマーを書くにあたって、
できるだけ「ふつうの人」の暮らしを伝えたかった。
話題にならない、もしかするとニュース価値がないからと、
切り離されるような人々のふつうの生活を紹介したかった。
活動家でもなんでもない、ただの旅人である私が見たミャンマー。
この国の内にある魅力を、少しでも
知ってもらえたらうれしいなって思ってる。

